生まれやすいが消えにくい無駄
社会人になって、会社で部署を転々としていると、どの部署でも「これ何の役に立つんだろう?」と思う仕事がある。
もちろん、仕事をしていく中で「こんな意味があったんだ」と気づくこともあるが、「まじで無駄じゃないか」と思い、上司に協議した結果、なくなっていくものも結構ある。
例えば、「書類を管理するための管理簿」みたいなものが作られているケース。
もちろんその管理している書類を頻繁に見返すような時は、すぐ取り出したいものを取り出せるように管理しておく意味があると思うが、ほぼ見返さないような書類に、詳細な管理簿をつけているケースが結構あった。
後、この類の管理簿が乱立しているケースなどもある。
組織の方針が、若い頃は色んな部署で色んな分野の経験を踏ませるということもあって、色んな部署を転々としていると、似たような無駄が発生していることに気づく。
では、なぜそんな無駄だと思うものが放置されるかというと、おそらくこの手の無駄は「生まれやすいが消えにくい」ものだと思う。
ある書類に対して、その書類を管理するためのものを作ると、「じゃあ他の書類も同じ管理をしないとね」みたいな話になり、中身の重要度に限らず画一的に管理するといったようなことは、わりと発生しやすいと思う。
しかし、時が経ち担当者が変わり、「これ無駄じゃない?」と思っても、やめようとする時は「その管理が何に基づいてされているのか(例えば法律に基づいているものではないのか)」「本当に問題が起きないのか」など色々検討しないといけない。
それに担当者としては、特に無駄を削っても評価されないとなると、インセンティブも働きにくくなる。
そうなると、一度生まれた無駄は、中々削られにくかったりする。
もちろん何か新しいことをやる時は、仮説を持った上で「やってみることが大切」だと思うので、そういうトライから生まれた無駄は仕方ないと思う。
ただ、無思考に画一的な対応をした結果生まれてしまう無駄というのは、極力自分でも生み出さないよう気をつけないとな〜と思う。
なので、どんなものにおいても、「あっちがこうやっているから、こっちも同じようにやる」という風に、「個別に考えずに画一的な対応をしてしまうと、無駄が発生しやすい」ということは頭に入れておこうと、燃えないゴミ袋だけ大量に残ってるのを見て思った平日の朝でした。
「もったいない」自体が「もったいない」こと
本を読むことが好きだ。今や図書館でも色んな本を借りれるし、有料で電子書籍を買えば、すぐに新刊を見ることもできる。アマゾンでは月額の読み放題サービスなんかもある。そんな「本」だが、本を読む中で不要な「もったいない精神」を発動させてしまうことが多々ある。
それは、「本は最後まで読まなければならない」という謎の思い込みである。
お金を出して買った本なんかは特に、「最後まで読まなきゃ、出費した分がもったいない…」みたいに感じてしまいがちだが、そんなことはないなと最近思う。
自分にとって読みにくかったり、あまり面白いと思えないと思う本であったら、途中で読み終える、もしくは気になる箇所だけ読むというスタンスで全然いい。
むしろ「読みたくなくなっても最後まで読まなきゃいけない」という思い込みで、せっかく好きでやっていた読書という行為が、嫌いになってしまうリスクの方が大きいと感じる。
こんな風に、時々「もったいないと思うこと自体がもったいない」となってしまうような状況があるが、そこで昔本で読んだ「コンコルドの誤謬」という心理学用語を思い出す。
用語の意味としては「ある対象へ(お金なり時間なりを)投資し続けることが損失になるとわかっていても、それまで投資した分をもったいないと惜しむため、投資がやめられない」という感じの意味だったと思う。
(昔、イギリスとフランスが共同で開発していたコンコルドという超音速旅客機が、開発段階で採算割れすることが確実と思われていたにも関わらず、それまで巨額の投資をしていたこともあり、開発を中止できなかったことが由来になっているらしい)
よくよく考えて見ると、以外に身近なところで、この誤謬が発動しているなと思う。
例えば、自分はよく高校の数学のテストなどで、最後の難問に時間をかけ過ぎていた。
具体的には、数学の期末テスト残り15分で最後の難問が待ち構えている。その難問はテストを作った先生の「満点なんぞそう簡単にはとらせん」という意気込みがひしひしと伝わってくるような問題だ。
その難問を前にして当時の自分は、「この難問を解いて自分が唯一クラスで満点をとった覇者となる」くらいの思い上がりを心の中でぶちまけていた。
しかし、一方で「そうは言っても残りの5分くらいは始めの簡単な計算問題の見直しに当てた方が、ミスを防げて最終的な点数は高くなる。最後の難問は10分くらい解いてみて、ダメだったら残りの5分は簡単な計算問題の見直しに当てよう」と冷静に考えている。
しかし、いざ難問を解き始めるとあっという間に時間が過ぎていく。始めは10分で切り上げるつもりが、「ここまで来たら難問を解ききらないと、この問題に費やした10分がもったいない!」という感じでドツボにはまり、結局難問も最後まで解けず、計算問題の見直しもできないままタイムアップという悲劇の結末を迎える…
まあ、社会人の今となってはテストでこんな思いをすることは中々無いが、この「もったいない」と思ったことにより、より「もったいない」結果を招いてしまうということは、時間にしてもお金にしても以外に身近にあるのかもしれないと思った平日の朝でした。
「期待値」と満足と人間関係と
学生の頃、数学の確率分野で学習した「期待値」という概念。
学生の頃、個人的には比較的点数がとりやすく、ありがたい項目くらいにしか思ってなかったけど、まさか大人になってこんな役に立つ概念だとは、当時知るよしもなかった…
じゃあ、何の役に立つかというと、分かりやすい例としては、ギャンブルなど数字で損得が出るもの。
例えば「サイコロを振ったときにどの目が出るかを予想し、予想が的中すれば3,000円もらえるゲーム」の参加費用が800円だったとすると、このゲームで得られる期待値は、
1/6 (予想した目が出る確率)×3,000(予想が当たった場合の報酬)=500
となり、得られる報酬の期待値(500円)よりゲームの参加費用(800円)が高いから、金銭的な損得だけ考えると、このゲームには参加しないほうがいいという結論になる。(実際にあったらシンプルすぎて怪しいですが)
こんな感じで、「その勝負にのったほうがいいのか、のらないほうがいいのか」ということを論理的に決定できるというだけでも役に立つ概念だと思うが、その他にも期待値という概念は非常に役立つ。
それは、人の満足感を考えるうえで、めちゃくちゃ役に立つということ。
どういうことかというと、人の満足感は期待値と実際の感情体験の差分によって生まれるものだとする。
例えば、今日は友達とのバーベキュー。正直あまり仲のいい人がくるわけでもないし、そもそもそんな楽しいもんだと期待してないので、期待値は30%くらい。
しかし、行ってみると案外みんなと打ち解けられて楽しかったため、楽しかった度70%くらいだったとする。
このとき、30%の期待値に対して、実際楽しかった度が70%だったので、その差分40%が「思ったより楽しかった」という満足度として残る。
これが今日は仲のいい人結構くるし楽しいだろうな〜と期待値90%だったとする。
しかし、実際行ってみると、天気悪くて味もいまいち。まあ仲良い人としゃべれて楽しかったっちゃ楽しかったけど、楽しかった度70%くらいかなて感じだったとする。
このとき、90%の期待値に対して、実際楽しかった度が70%だったので、その差分−20%が「思ったより楽しくなかった」という不満足度として残る。
こういう風に人の満足度というのは期待値に大きく左右されると思うが、これは人間関係にも言えることだと思う。
満足度の例を考えると、パートナーや友達、職場の同僚、上司や部下など、自分の身の回りの人に対して、勝手に高い期待値をもつということは、自分がその人に対して不満を持つ確率をあげてしまっているという見方もできる。
もちろん、(期待をかけることで、かけられた側のモチベーションが上がるということもあるだろうし)誰にも何も期待しないほうがいいというわけでは無いと思うけど、自分の中で勝手に期待して、勝手に失望するというのは、自分の中の期待値をうまくコントロールすることで避けられることではないかと思う。
そして、勝手に期待値をあげている時というのは、得てして自分の固定観念(パートナーに対して、「夫、妻ならこうすべきだ」、友達に対して「友達ならこういうことをしてくれて当たり前だ」などなど)が原因だったりすることもあると思うので、それを自覚するのは自分も相手も心地よくいるために、めちゃくちゃ大切なんだろうなと思うわけです。
いずれにしても、人間関係やサービス提供者にとっても深い意味をもつこの期待値という考え方。学生の頃は単純な計算問題としか見ていなかったけど、あなどれないやつですね
立ち読書と継続性と固定観念
仕事終わり、ご飯食べてちょっとダラっとした後「何か有意義なことがしたい...」と思い本に手を伸ばす。
でも、仕事終わりの食後に本なんて読み始めた頃には、地獄的な睡魔がすぐにやってくる...
最近はそんな悩みを抱えながら「自分ってこんなに夜何もできなかったっけ?...」と思いながら寝落ちを繰り返す日々でした。
どうしたものか...と思いながら「そうだ!軽く運動しながらだったら眠くならないかも!」と思いたち、さっそく部屋をうろうろしたり、軽くスクワットしたりしながら読書していると、これが効果的面。
「眠くならない!」
ただ部屋も狭いので歩きながらというよりは、その場で足踏み運動とかができたらいいなということで、ステッパーを購入。
いかにも3日坊主で終わりそうな気配を漂わせているが、今のところ続いている。
「なぜ続いてるのか?」と考えると、運動のためというよりは、単純に読書するための付属機械として使っているから続いてるのかもしれない。
そう考えると継続したいことは、それ単体でやるというよりは、他のやりたいことや既に習慣化していることと一緒にやると、意外に続くのかもしれない。
軽く運動しながらだと頭の回りもいい感じがするし、ちょっとした運動にもなるので一石二鳥ですね。
何となく勉強や読書は座ってやるというイメージがこびり付いていたけど、それを払拭して良かったと思える体験でした。
「固定観念を捨てろ!」という主張はよく見かけるけど、そもそも何が固定観念化しているのか分からないことも多々あるので、「本読みたいけど眠い...」みたいな悩みが出てきたときは固定観念に気付くチャンスなのかもしれない。
そう考えると、悩みも一概に悪いものではないかもしれないですな。
自分の中で普通になっている動作を、ちょっと変えてみるだけで快適になる。